2009年2月14日 (土)

ひどい本だった、『白洲次郎の生き方』(馬場啓一著)

講談社文庫から出ている『白洲次郎の生き方』(馬場啓一著)という本を買ったのだが、本文を読み始めて、すぐに「しまった」と思った。p.15の5行目から7行目に以下のような記述がある。

「白洲次郎は明治三十五(一九〇二)年二月十七日に生まれた。父親は文平、母は芳子という。次郎とは通常二男に付ける名前である。では長男がいたのか。兄である白洲家の長男がどういう人物であったか、資料ではうかがえなかった。」

 白洲次郎には5歳年上の兄、尚蔵と3歳年上の姉、枝子がいた、後に2歳年下の妹、福子、9歳年下の妹、三子もできた。この著者は、なぜ簡単に調べられることも確かめずに、いい加減なことを書くのだろう。そのままスルーさせる編集者も……。

p17の白洲次郎の祖父、退蔵に関する記述も大いに疑問だ。
p17の6行目から7行目にこうある。

「余談だが、退蔵は慶応義塾を興した福沢諭吉と近く、福沢はしばしば退蔵に借金を申し込んだという。」

『福翁自伝』(福沢諭吉著)を読めばわかるが、福沢諭吉が何よりも嫌っていたもののひとつが借金だった。金がなければ使わないことを身上とし、また、決して借金しないことに誇りを持っていた。この金銭哲学については、わざわざページを割いて長々と語っているほどなのである。福沢が「しばしば退蔵に借金を申し込んだ」ということはありえないと思う。たとえ、退蔵が、横浜正銀行の頭取を勤めた人物だとしても。

わずか3ページで、読む気をなくした。それでも、第3章「酒の嗜み」を読んだが、ほとんどが著者のウイスキーに関する薀蓄で、白洲次郎についてのことはほんのちょっと。

 とにかく、この本はひどい。

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2007年3月30日 (金)

フィリップ・マーロウは仮説だって

 村上春樹訳の『ロンググッドバイ』を読んだ。読みやすいい訳だったけど、『グレートギャッツビー』のときのように、「これじゃなきゃ」というほどではなかったですね。今まで読み親しんできた、清水俊二訳の『長いお別れ』も捨てがたい。

『ロンググッドバイ』で特によかったのは、村上春樹による巻末の解説。これで、清水俊二訳で細部をはしょっているところが結構あった、なんてことははじめて知ったが、すごいなと思ったのはテリー・レノックスとギャッツビーの二つのキャラクターがかぶることを指摘していたこと。

 さらに、チャンドラーがフィリップ・マーロウというキャラクターを実在し得ない、「仮説」として創造していたという説を示していたが、なるほど、と頷かされた。

 現実には全面的に尊敬できる人間はなかなかいない。常々、尊敬できる人間といえばフィリップ・マーロウかな、と思っていたが、たしかにマーロウの人格というのは全面的つかみ難い。「仮説」ということはある意味「神」である。逆に捉えれば、きれいに描かれた看板か、はりぼてみたいなものかもしれない。村上春樹の小説にも「仮説」的な人物が出てきますね。

 この解説には『はいほー』で村上春樹が書いていた『チャンドラー方式』の出典が紹介されていた。文章を書く時間を決めて、書けなくてもほかのことをしてはいけない、っていう、あれです。生命のある文章は「みぞおち」で書かれるというようなことが書いてあったが、これは同感である。結構普遍的な感覚なんだろうか。

 『ロンググッドバイ』は『長いお別れ』を通じて、ほとんど展開を覚えている小説なのだけど、僕としては読むたびに物語に癒される感じがする。主人公が「仮説」だからこそかもしれない。

関係ないけど、沢木耕太郎はノンフィクションのはずなのに「私」が仮説っぽい。



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